変化の兆しみたいなもんは薄々あって、兆しから変化までは本当に一瞬。
大事なのは、変化をどう捉え、どう活かすか。
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モヤモヤはしていた
2022年9月~11月中になかなかしんどいタスクがあって、しっかりと平らげた。
けど、何処か腹落ちしない感があるし、自分で決めたことなのに手がつかない、そういったモヤモヤはあった。
腹落ちしてなかろうが、決めごとに手をつけなかろうが、日常は過ぎるし世界は周る。
もう年末だし、年明けから頑張ろうって、毎年おんなじような決意をして、いっつも継続できなくて、自分はなんて意志が弱いんだなんて思いながら春がきて、うかうかしてたらまた年末。っつーのを何年もループしている。
例年との差異は、今年の年末は本気度がそこそこ高そうだぞ。いい風吹いてるぞ。と、真面目に思えておったところでしょうか。
飼い猫の不調~急逝
冒頭の、日常は突然変化しよるっつーのは愛猫が急逝しまして。おっさんはガラにもなく泣きました。
もともと11月下旬ぐらいから嘔吐が続く→医者にかかる→消化が苦手なこと、先天性の心臓病をわずらっている事が発覚→投薬治療開始→昨日の夕方、急に後ろ足が痙攣→すぐさま入院→今朝亡くなる。この間が3週間かそこらで起きて、喪失感がすごい。
んで、この変化をどう捉えるかというのが本文のメインとなります。
大きな痛みは回避してきた
においでわかるっつーか、やばい予感がするっつーか、今まで小さな痛みや不快をいっぱい食らって、その傾向を捉えて対策してきたおかげで、大病も大怪我も、事故も犯罪も、喪失感や虚無感ともほぼほぼ無縁で生きてきたんよ。
結果どうなのというと、いまある環境の居心地を良くさせるのは得意だけど、成るか成らないかわからないチャレンジが非常に苦手になってしまった。
なので、今回の愛猫の喪失は本当に心の底からショックで、対策しようもない、不可避の運命であったと思ってる。ここで、「ああ、対策しようのない不運はあるんだ」「であるとするなら、もうなにもチャレンジしないぞ」「チャレンジしようがしまいが不運はあるのだ」みたいな腐り方すると、本当に手の付けられない虚無感お化けになってしまう。
彼の死を意味のあるものにしてあげたい。
一緒に暮らした時間が無意味だったわけじゃない。死後も尚、彼が存在したおかげで今に尽力できる自分に変化したい。そう思いました。
んで、さいよこテメーは何すんだよ
全部やります。
今までの知財と経験で、会社での居心地はほぼ確立したんだけど、一旦壊して、作り直して、もっと居心地のいい会社にする。
盟友と楽しいを追求しつづける。
自分をぶったたいて、行動するだけで達成できるやつは全部やる。
人生は一度だし、必ず死は訪れるし、限られた時間を楽しみ抜かねば、早世した愛猫に申し訳がたたんのよ。
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